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年 月 日

山 名

標 高

2.5万図

天 気

当日京都市の
最高気温と最低気温
〔 〕は平年値+-

同行者

2005 7/27

品谷山
廃村八丁

880.7m
600m

中・久多
上弓削・花背


曇一時霧雨後晴

30.1℃  21.9℃
(-3.0  -2.3)


行 程
福井市自宅出発430====マキノ====今津====朽木====梅ノ木610====久多峠635====広河原====
京都市左京区佐々里峠登山口(標高730m)700〜715----ダンノ峠分岐755----品谷山840〜850----品谷峠910----
廃村八丁955〜1045----四郎五郎峠1135----ダンノ峠1200〜1205----品谷山分岐1235----佐々里峠1305
                                  ◆周回 休憩時間含む ■出会った登山者 0人



別山、千振尾根の予定だった。ところが台風7号が東海沖から房総半島をかすめて三陸沖へ抜ける。幸い福井は台風の影響はなかった。三陸沖に抜ける台風は台風一過の晴天は北陸では望めない。西高東低の気圧配置になって北寄りの風が吹き天気を悪くする。別山は雨とガスそして強風だろう〜と行き先変更する。

京都府美山町と京都市左京区の境、佐々里峠へ早朝から飛ばす、所要時間2時間30分だった。梅ノ木から久多峠を通って広河原へは初めて通る。一車線の山道は曲がりくねって厄介な道路だ、早朝だろうか対向車は一台も無かった。
佐々里峠の北側は芦生の森、北に行けば由良川本流トロッコ道の灰野に通じる。

歩き始めてまもなく芦生杉の巨木に出会う、高さはさほどなく胴回りの大きさに驚く。連続して現れる。
稜線に上がると北風は強く木々の葉を揺るがす、大型扇風機の前にいるようで真夏の低山でも快適に歩ける。
花は少なくナツツバキの白が目立つ程度。品谷山は薄っすらガスが掛かり展望は無い。杉の巨木とブナの巨木の尾根道は高低差はなく気持ち良く歩ける。国土地理院の2.5万図、品谷峠は山頂から最初の鞍部に記して有るが現地ではピークを一つ越した所が品谷峠だった。

峠から自然林と杉の植林のスモモ谷を下ると北風は尾根に遮られ静寂になり谷川のせせらぎの音だけになる。刑部谷と合流した廃村八丁に着いた。八丁川がS字に曲がった平地に集落跡の石垣が残っている。この山奥に人々の営みが昭和11年まで有ったとは想像しがたい処だった。全く車道の無い山奥だ。何処から入っても谷沿いの細道だったに違いない。

曇り空から霧雨が落ちてきた。三角錐の小屋は所々床が落ちて薄暗く気持ちの良い小屋ではなくカエデの木の下で早めの昼食にした。

刑部谷をダンノ峠に向けて遡上する。何度も渡渉のくり返し、炭焼き小屋の石垣が幾つも残っている。滝も現れる。(暗くて写真に成らず)四郎五郎峠付近は平地の自然林の中、沢はゆっくり流れ芦生の森を彷彿させる気持ちの良い処だった。
コーヒーを立て一服するには素晴らしい処だった。霧雨では仕方ない先を急ごう。
自然林から杉の植林地になるとダンノ峠(国土地理院ではダンノウ峠)。

峠で一息入れていると臑と脹ら脛にチクリと痛みを感じる。1cmのナメクジの様な物が・・・話しに聞いていたがこれが山ヒルだった。僕は5ヶ所、カミさんは2ヶ所、血が滲み出ていた。地元の山では全く生息して無いと思うのだが、初体験の洗礼を受けたのでした。

ダンノ峠から佐々里峠に向かう、この尾根にも芦生杉の巨木が有り樹肌は真夏の日射しで輝いていた。



佐々里峠 左手は芦生の森・灰野へ  品谷山は車道右手

芦生杉

芦生杉

芦生杉

ブナの尾根道

ブナの幹にアメリカ合衆国?

こんな所にブナの実

品谷山山頂

廃村八丁

廃村八丁

八丁山は、明治11年6月最終的に上弓削村と佐々里村との境界が決定するまで実に600年近い争いの歴史であった。
1682年公儀の御留山として立入が禁じられた。元禄14年(1701)周山村吉太夫の請負山となり上弓削村から
3名と広河原村から2名が炭焼を職として1町5反3畝の新畑を開き住居、1743年上弓削村の請負山となり5戸の者も
上弓削村の山番として定住してきたが、明治維新になっても佐々里村から八丁山払い下げ願いが出されこれを聞いた
上弓削村も直ちに払い下げを嘆願した。山番5戸を味方にした上弓削村領と決めて和済が成立した。

明治33年には博習校の分教場も設けられ8人の児童に先生1人が教鞭をとった。
昭和8年の冬大雪に遭って食料が欠乏し病人が出ても医者の便もなく、さんざんな目にあった所から村あげて
山をあとに平地にさがり、昭和11年に廃村となった。
(案内板より)

刑部谷

滝の脇を登る ロープと手摺り

ダンノ峠